「本当の心配」と「偽物の心配」とは?

ブログの更新します、

今回は、「本当の心配」と「偽物の心配」とは?という事に付いて書いて行きます。

良く両親とか会社の上司と部下の関係でも良いのですが、「あなたの事が、心配なの。」

それって本当にそうなのでしょうか? 自分の都合の良い様に相手を支配する為に、優しさの要素を含んで心配を装っているだけではないのでは無いのか? 

相手が心配と言いながら、心配と言う大義名分を使って支配と言う攻撃をしてくる人。

その心配は誰為なのか? 本当は自分の為に相手を心配する人達は、

相手をを信用していないからこそ、心配してしまうのでは無いのかとそう思います。

その為の解決策を今回四つご紹介させて頂きます。

解決策1 自分の不安と向き合わなくていいメリットに気づこう

解決策2 一生誰かの心配をしつづける人になっていないか?

解決策3 支配されない為に出来る事

解決策4 それは本当に相手を思っているが故の心配なのか、見極めよう

最後に纏めと自分の心配と言う私の知見や意見を言う流れで話して行きます。

今日話ししたい事は「心配で心配で仕方がないんです。」

相手の事が子供が心配・旦那が心配・上司の立場だったら部下が心配で心配でって言う人達が一定数います。

私こんなに相手の事を心配して色々言ってるのに全然話聞いてくれない話し聞かなくて言うお話。

この人達に考えて欲しい事があるんです。

心配と言う名の元に裏側に含まれているメッセージは、「私(親・仕事の上司・友人)の事でこれ以上不快にしないでくれる」と言う裏側のメッセージが隠されています。

結局その心配は誰の為なのか?と言う事、自分の為に相手を心配する人達がしてくれるその心配は「あなたがそうやって私を不安にさせる様な行動をするから私の気持ちがいつも気が休まらないし不快で不安で仕方がないの、だからもうその行動をやめてくれる、いい加減にしてよ」って言う、メッセージが含まれていませんか?って事を考えて欲しいんです。

心配するってもちろん誰でもあります。大切な人程心配したくなります。これ幼少期のお子さんだったらもちろんいろいろ自分で判断出来ない事もあるから親として心配するのは当たり前です。

けれども、特に大人同士の関係において「心配なの心配なのよー」と、あるいは会社の上司が、

俺は本当に心配してんだよ、「お前の事すごい心配なんだよ」って心配と言う言葉を使ってくる人って言うのはそうやって相手に俺は心配だよ」、私は心配なのよっ言う風に優しく接してきている様で実は「お前がしっかりしねーからこんなに嫌な気分になるんだよ、いい加減にしろよ」

って言うメッセージが含まれている可能性が大いにあるんです。

詰り、心配と言う優しさの仮面をかぶって一見心配してくれる良い親、良い友達を装ってるんだけどそこで言いたい事って言うのは、「あなたの行動を見ていると私の不安が揺さぶられるのいい加減にしてくれる」って言う裏のッセージが含まれている場合が結構多いんです。

詰り、例えば、会社の上司がその部下だったりとかするんだけどもその人達の様子や行動を見ていると自分が不安になる分けなんでよ。「おいこいつ大丈夫なのかなこの人はまたこんな事やってまたそんな事やって」みたいな感じで自分が不安になってくる分け何です。

不安になってしまう理由としては、当然親だったら子供が不安と言うのは、当たり前の感情であって子どもの行動を見て不安というのはあるん だけどもその子どもの様子を見ていると「こんな子供になってしまったら如何しようとか、世間様に恥を掻いたら如何しようとか、世間体を気にして、私の子育てが間違っていたら如何しよう、そしたら私は駄目な人間みたいなそう言う不安とか自分自身と向き合いたくない抑圧している感覚が湧いてきているからこそ相手を心配すると言う形を取って相手の行動をコントロールしたいって言う動きになっている方は結構多いんです。

会社の上司とかもそういう面があって「お前が心配なんだよ、俺はなお前が心配なんんだよ」って言いながらも実は、裏側の心理としては。「お前がちゃんとしてくれねえとしっかりしてくれねえとな俺も俺の業績に響くんだがちゃんとしっかりやってくれよ」っていう気持ちがあるんです。

でもそれを心配と言うオブラートに包んだ状態で相手に「お前が心配なんだよ、お前が心配なんだよ」って言ってる、でも本当にやりたい事って言うのは相手の行動を自分が不快な気持ちにならない様に自分が不利な状態にならない様に自分が周囲から見て本調子なのに、

親なのに、友達なのに、あの人みたいな風に言われたら如何しようみたいな気持ちをもう起こらない様にす為にそう言う現実が 、起こらないようにするための防衛的な反応として相手に対して心配といっている可能性があってそれは相手に対するコントロールなんです。

相手の例えば親子であっても、まあ上司と部下であっても最終的には独立した人間であってその人の人生の責任と言うのはお互いに自分が責任を取って生きて行くしかないんです。

けれどもその人の心の境界線(バウンダリー)を乗り越えてまで相手が「心配なのあなたが心配なのあなたが心配なのよ」と言って来る人って言うのは、

言い方を変えると相手の力を信用してない、相手を信用していなからこそ、心配してしまうそれは相手の人生を信用していない人なんです 。

つまり、お子さんを信用していない部下を信用していない友達を信用していないのだから口では「心配なの心配なの」言いながら裏側のメッセージとしては、「お前は無能なんだから私の言う事だけを聞いとけば良いんだよ」とか「お前になんか大した力なんか無いんだから」って言う裏側のメッセージが隠れている可能性があるのです。

これを言うと「そんな事無いです、私は本当に心配なんです」って言う人がいるかも知れないけど、そう言う反応しちゃう人は翌々考えてみてそう言う心配な事をする相手が、目の前にいるとあなたは、どんな気持ちになりますか?

あなたが不快になってるはずなのにあなたが不安になってるはずなのにそう言う風に心配な行動をすると思っている人を見ているとあなた自身がソワソワしちゃうはずです。

だから実は向き合うべきはあなた自身の不安や不快な感覚なんですよ。

相手の行動と言うのは飽くまでもあなたが持っている不安な感覚抑圧してきた感情感覚が揺さぶられる事によってそのきっかけになってるだけであって相手の行動その物じゃなかったりする分け何です。

向き合うべきは自分自身の中にある不安感だったりするわけなんですよ。

これはもちろん人それぞれいろんな不安感があるわけで、例え親が子供が心配で心配で心配で仕方がないなんて言う場合は、自分自身がちゃんとしなければ行けないって言う思い込みがある可能性があります。

ちゃんと子どもをしっかり育てなければ行けないって言う完璧主義な感じとか周囲にどんな風に見られているか怖いだから自分の子育てがどんな風に見られているのが強いみたいな感覚がすごく抑圧されててそれが自分が心配な事と子どもを見ていると自分のこの部分の不快な部分が揺さぶられるためであり、だから相手の行動を直したくなるって言う風に起きている可能性もある分けなんです。

解決策1 自分の不安と向き合わなくて良いメリットに気づこう

つまり相手の事を心配する前に私なんでこんなに人の事が心配になってるんだろうって自分に対して質問してほしいんです。

これがその今日の解決策の1個目なんだけれどもいつも相手が「心配心配心配」って言ってる人は、「私は一体何でこんなに子供の事や友人に対して心配ばかりしているんだろう」って考えて欲しいんですよ。

それは、自分の中にそもそも不安と感じている事、自分が向き合わなきゃ行けない問題があるんじゃないかって言う風に感じてを考えて欲しいのです。

なんでかと言うとそこに向き合わないと、あなたはずっと周囲に心配する人を演じ周囲に心配と言う種を振りまくだけの人になるからです。

このメリットって自分の心配とか不安と向き合わなくても良い言うメリットがあります。

常に外側に外側ばかりその代わりあなたが心配が「あなたが心配なのあなたが心配なのって」

やっていると自分の不安や不快な事に向き合わなくてすむからです

解決策2 一生誰かの心配をしつづける人になっていないか? 

こう言う人って子育てが終わったりすると今度はなんか「友達の○○ちゃんが心配なの」とか「その子供が心配なの」とか「孫が心配なの」とかで一生誰かの心配しているんですよ。

でもこれはある意味現実逃避をしているだけで、自分の問題と向き合わずに逃げてるだけ何です。

自分の感情の感覚から本当は一番自分の不安や不快な気持ちに向きあって一番心配に思っているのは、あなた自身の不安な感覚だからなんですよ。

それを自分で向き合わないで抑圧しているので普段からそうすると自分の不安や不快な部分に刺激を与えてくる様な人を見るともうやめてくれよって気持ちになるんです。

その理由に付いて、けれども止めてくれと直接言わないで、それ見ていると「心配なの」って心配と言う言葉にすり替えているだけなんです。

でも心配と言うのは自分が不安になっていて向き合うべきは自分の不安である可能性がある分けなので、よってもう一個の原因として、例えばある人が強い不安を抑圧していると相手の行動にそれが投影されます。

つまり相手の中では安全な事やってるつもりあるいは相手の中では、新たな挑戦して新しい世界に向き合って言っている所なのにその人の不安があまりにも抑圧されていると周りの人に対して投影が起きて相手や周りの行動全てが不安で危険な物に見えてしまうと言う事が起こる分けです。

これも心配の原因の一つだからこそさっきの解決策1に戻ってくるんだけれども「なんで私はこんなに相手の事を心配してるんだろうそれって何か私が不安に感じているだけ何んじゃないか?

私の問題なんじゃないか?」って一回自分に戻してほしいんですよ。

解決策3 支配されない為に出来る事

そしていつも「心配なの心配なの心配なの」と言う感情に乗って言われてしまう人に対して、あるいはその周りからそう言ってくる人がいます。

なんかこう心配と言う名の元に色々言われてしまう人は、逆に相手に聴いてみて下さい。

「私は今までもこうやってちゃんとやってきてるし私の人生は私の物だから自分で責任がとれます。

そんなに心配してもらわなくても大丈夫です。」

そして何かあったとしても「これは自分の人生だから自分で責任をとりますと言い切った上で、一体何が心配なの」逆に聞いて見てくださいよ。

そうすると相手は実はアナタの事が心配なんじゃ無くて自分の不安とかが揺さぶられている事に不快な気持ちを感じてそれを相手に心配って言ってるだけだからそこに対して上手く答えられないんですよ。

だから皆さんも、「あなたの事が心配なのあなたが心配なの」って言ってくる人がいたら本当に聞いて見て「これは私の人生だし自分で責任を持って全部自分でやってるんだけれどもそこに対して一体何が心配なの」って逆に聞いて欲しいんですよ。

「それって何かあなたが勝手に不安になってるだけなんじゃないの、でもこれは私の人生であなたの人生ではないよね」ここまで言ったら喧嘩腰みたいになっちゃうけども、そう言うニュアンスで聞いてみると「心配なの心配なのあなたが心配なの」って言ってくる人ってもうそれ以上何も言えなくなっちゃうんですよ 。

解決策4 本当の心配なのか、見極めよう

本当に親が子どもの事を思って、かあさんそれ心配なんだよって心配する事は親として当然、もちろん思いやりのある子供が思いやりのある上司が、あの子のこの行動を見ているとこの部下の行動を見て正直まずいなぁと思って「俺さぁ本当にお前の事心配してるんだよって心配でもあるわけですよ」

「このままだと本当にまずいなと思えばいやーこのままの状態だったらちょっと心配なんですよ」

て相手に対して言ったりする事もあります。

そこに共通しているのは相手をコントロールしようとする気持ちはないのです。

心からの愛情で「このままだとあまり良い結果にならないと思うんだ」その提案をする心配はいいと思うんですよ。

問題なのは心配の中にコントロールが含まれていてそれを止めてくれる人が現れた場合それは「私が不快になるから私の不安を揺さぶらないでくれる」って言うのは、その心配はただのコントロールになってしまうので心配する方は止めなきゃ行けないし心配されてしまう方もそれを受け取ってはいけません。

相手をコントロール出来る究極の心理テクニックではないんだけど「心配なのよ心配なのよだからこの通りにしなさいそうすれば私が気分悪くならないから」

みたいな裏側のメッセージが含まれている場合があるんですよ。

でもそれってなんかこの様に言われている方が「心配だよほんとに心配だよ」って言われて愛情から言われている心配って言うのはそうだよなって、こうその時は、受け取れなくても暫くしてからもそうだよなって思えたりするわけですよ。でもコントロールから来てる心配って言うのは、なんか違和感があるわけだからその違和感がある心配は皆さんもちょっと考えて見てください。

あの人って本当に自分の事を心配してくれてるのかな?

それとも自分が不快な気持ちになるからその行動をやめさせる為に自分に言ってるだけなのかな?

みたいな風にちょっと考えて欲しいなって言うのがあるんです。と言う分けで今日は心配と言う名の元に相手をコントロールしてしまうという事で記事を書きました。

纏め

世の中には心配性タイプの人がいるので気をつけてください。

心配性と言うタイプの人は、言い方を変えると自分の事も人の事も一切信用できない病と言い換え得る事も出来ます。又何をやるにも常に自信が無く自己肯定感の低い人でもあります。又心配と言う言葉を使って自分の正しさを心配と言う言葉にすり替えて自分の価値観や考え・正しさを証明したいだけの人でもあります。

そしてあなたはそれをしていませんかと話しました。

それに気付いて行く為には、「私は相手の事を心配なの心配なの」って言ってるんだけれどもそれって本当に一体如何言う感覚から来ているのか?

本当は私が何か不安に思って私の不安や不快な事が原因なんじゃないのかって事を思い出して欲しいです。

その上で心配すると言う事の本質は相手の人生その物を丸ごと信用していない事と同じであります。

心配すると言う裏のメッセージは相手の人生を信用していないと言ったけれども、

それでも相手の生きる力を信じるって言う事も必要な事だと思います。

それが、お子さんであれ部下であれ友達であれ「心配なの心配なの心配なの」って言ってるって事は相手を信用していません。相手の力も信用してません。もっと言うと「お前なんか大した事出来る分けないんだからさお前なんかなにも出来無いんだから私の言う事に素直に従えよ。」

「お前は、大した力とか持っていないんだから何もしなくてもいいんだよ全部私の決めた行動をし私の決めた人生を生きればいいの」

下手すると、そう言う裏側の腹黒い感覚まで含まれている場合がある分けで相手の力を信じて見ようと言う気があればあなたの心配は少しづつ薄れて行くはずです。

だって相手の人生を生きてる分けで無いんですから、私は見守る事しかできないけれども、

「その人の人生なんだから相手に任せて見ようって言うその気持ちが足りてなければ、心配すると言う事を考えなく心配する事はあなたは相手を下に見下してるって事がある分け何ですよ。

「心配心配」って言いながら相手を下に見ているからこそ出てくる心配の言葉と言うのがあるんです。

これが、対等な同じ人間同士のつながりながらの心配は愛情の元に出てくるんです。

けれども下に見ている人間に対して心配なるっていう場合にはこれはコントロールになっている場合が多い分けですよ。

だからそこもよくよく考えてほしいです。

「相手にも生きる力があるんだからそれを信じて見よう。」

そして何かあったら私は相手の力になるぐらいの気持ちでいるってすごくいいですよね。

この「心配なの心配なの心配なの」って言ってくる人って本当に困った時に、

以外にも一切助けてくれなかったりするんですよ。

この様な人って実際にいます。これ経験ある人いると思います。

「心配なの心配なの」「私の事本当に心配なのにそんなに心配して私の事を思いやってるんだったら私は困ってくれる時に助けてもらえると思うじゃないですか。

所がそう言う人って心「配なの心配なの」って言いながらもし何か本当にまずい事が起こった時に「ほら言わんこっちゃない」って言ってどっか行っちゃって逃げて行ってしまうんです。

ちょっと 待ってあんなに心配してくれてるんだったらたらちょっと助けてよ

結局最後の最後まで「ほら言ったでしょ私あれ程心配したのにあなたが言う事聞かなかったからこう言う結果になったのよ」 詰り「私が正しかった」みたいな事を言って去って行くみたいな感じでね

本当に心配だったら相手に何かあったら相手を助けもせずただ心配するだけのマウントをして来る人にも気をつけけて下さい

もし仮に本当の友人だとしたら助けて様と思うじゃない、アナタの事が心配ならあなたの事を思ってるのよってこ言う風に言われたら本当に自分の事を心配してくれてるんんだ。

と思うじゃないですか。

でもそう言う人って助けもせず意外とスッと去って行ったりする分けです。

だから心配の気持ちはと言うのは本当に、いつでも相手の事が大事で相手の力を信じて相手を見守りかつ「もし何かあった時に助けるよ」

って言うそう言う距離感・境界線を引きながら人間関係が築けて言ったら本当に素晴らしい事だと思います。

これなかなか難難しいのかも知れませんけど、相手の力を信じられない人は、自分の力も信じていない人です。自分の力も相手の力も信じるって事をしてほしいんです。

なので相手の力が信じられない人って言うのは実は、自分の事も信じられない人がもし自分の事を信じられない人って言うのは、相手の事も信じられないから開いて見るって言うと徐々に不安になってくるんだよ。だから「あなたが心配なのあなたが心配なの」って言ってる人の裏側っていうのは自分自身の事を信頼できてないって言う裏側の深層心理もあるんです。

だから、相手が「心配なの」っ言う事を一つとってもものすごい深い話なんですよ。

心配する側も心配されちゃう側もよくよく考えてみて下さい。

そして「心配なの心配なの心配なの」って言ってる人って意外と何かあった時に全然助けてくれないですし助け様とゆう気も無い人です。

ス~とフェードアウトする様にいつの間にか逃げているケースがあったりする事もあります。

皆さんも心配と言う名のコントロールを受け入れない様にしてください。

最終的には自分で自分の人生なんだから私が私の人生の責任をとるんだって気持ちがあれば「心配なの心配なの」って人がまわりによってきても自分自身の心を平静に保つ事が出来ます。

だから最終的には自分の力を信じて自分の生きる力を信じて生きて下さい。

自分の心配と言う私の知見や意見

ここからは私個人の心配と言う事に付いての私なりの知見を言おうと思っています。

先ず、私の母親の事に付いて言いたい事があります。

それは自分の母もかなりの心配性タイプの人だと言う事が分ってきました。

何故なら結局母親も一見自信がある様に振舞っていますが、実は自分の考えが無い自信が全くない人だと言う事が分ってきました。自分の事を心配だよ心配だよと常日頃から言っているのに自分はその心配と言う言葉に幼少期の頃から何か違和感があった事は、確かです。

心配だと言う人は完璧主義者の人も多いので、何故そんな人間性になってしまったのかと言うとそれは、失敗が怖いからだと思います。

失敗が怖いからこそ完璧に遣ろうと言う思いから相手に投影して心配と言う言葉にすりかえて自分の思う様にしているだけなんだと言う事に気づきました。

現実に生前の父親からも長時間説教話を受け5時間~6時間ぐらいで済めば未だいい方で下手したら夜明けまで父の話を聞かなければならず本当に苦痛を味わっているのに母はただその様子を見ているだけで何も助けてもフォローもしてくれませんでした。(実際に父から殴られそうになるとその時だけは身体を張ってかばってくれましたけどそれ以外は何も手を差し伸べて貰えませんでした。)恐らく母親の考えは、父と息子2人で男同士で話し合えば分かりあえるとその様な思い込みが今でもあるのでは無いかと思います。男同士で2人で話し合えと言われても当時の自分は未だ小学生の少年だったんですよ。その一方で当時の父は30中ばの体の大きな男です。対当に話し合いが出来ると母親は本気で思いこんなでいたんでしょうね、対等な話なんてできるわけないですよ。無茶ブリも良いとこです。父親から超時間の説教の時は、本当にもう母親の口から「その辺で辞めたら」と口添えすること無く言ってくれる事も無く一度も助けてくれなかった、記憶が自分の幼少期に鮮明に残って要るからです。

しまいには母親もその場から離れてしまいこうなると完全に父親の独壇場になって余計話がエスカレートし更に興奮状態になって余計話が止まらなくなりそれも同じ話を何度も聞かされるのは、もはや拷問に等しい行為だと私は思います。

生前の父も[お前の事が心配で心配でたまらないんだよ]とよく言っていましたが、生前の父親も子供の人生と生きる力を全く信用していなかったと思います、父自身も自分自身を一切信じていなかったふしがあります。それは母親も同じで自分の事を信じられないのかもしれませんね。「俺(私)の言う通りに生きればそれで良いんだ」と言う思いもあったのかも知れません。

然し、それも今となっては生前の父の思惑は、何とか、自分を思い通りにコントロールして親の言う事は何んでも聞く従順な奴隷の様な子供にしたかっただけなのかも知れません。 それと父の人生は仕事一筋の人間で、恐らく父の人生は非常につまらなく仕事の事でも仕事の人間関係でも常に苛々してそのターゲットとして自分が選ばれ父の苛々と言う感情遠路なくぶつけられる感情的のゴミ箱にされていた様な気がします。今思えは生前の父は紛れも無く独父な上にモラ父だったと思います。

母親も常に小さな事でも朝からお叱言ばかり言ってきて具体的には、水分の取り方から食べ物の食べ方まで指摘して来ます。自分に言わせれば、「お前は水の飲み方が下手クソだよ」とよく言われます。

「水分くらい好きに飲ませてくれよと言いたいくらいです。」別にジュースやコーラの様なもの飲んで入るわけじゃ無いんだからと言いたいです。家に帰れば強制的に部屋の片ずけをさせられるし母は極度のミニマリスト・断捨離の信望者でとにかく物を極限迄減らし部屋をこざっぱりしてにして部屋をすっきりして使いたいと言う考えの様です。そこは終活も含まれている訳で未だ何とか、身体が動けるうちに身辺整理をして身軽になりたいのかもしれません。

片付けるだけ片ずけて捨てられる物は徹底的に捨てています。恐らく母は焦っているんだと思います。

更に言えば母親は、自分の行動や自分が言った箏を同じ様に言うからかった口調で返して自分の反応をを見て面白がっている事がわかりました、

そう考えると「自分は母親の愛玩用のペットでもないしオモチャでも無い」と言いたいですよ。

更にもっといえば、自分は例えばミカンと言ったと、すると母にとってはイカンと言う風に聞こえる様です。

おまけに視力も落ちて来て白内障も患っており寒月か来月あたり白内障の手術をする予定ですがこれですこしは視力がましになればと思っています。LINEでの小さい文字が読めず、常に度の濃い眼鏡を掛けなければ小さい文字を読む事も出来なくなってLINEや文章でのコミニュケーションもお手上げ状態です。

母にも「ストレスの影響もあるよ」と言っても「ストレスなんか、だれだって持っているんだストレスのせいにするな」と返されるだけです。最近は腎臓の数値が悪くなっているのでAmazonからガヴァ茶を取り寄せて朝1番にうがいをして一杯飲む様にしてます。

水分も基本は麦茶を適量飲む様にしています、得にペットボトルに入っている麦茶は一度封を空けたら最低でも一日掛けでも飲み干してしまわないと麦茶は腐りやすいので、一日かけて服む様にしてます。

もっと言えば、自分は、もう十分に今の自分に出来る事はやるし、最近は、食事した時の食器を洗剤を使って率先して洗う様にしてます。

ただ、生きているだけでもう十分にがんばって生きているし、それにB型事業所にも毎日土日祭日を除くほぼ毎日フル通所して通っています。それだけでも努力していると言うのにもっと頑張れもっと努力しろともっと言葉のリハビリしろと尻を叩く様な事しか言わずまともに褒めて舞った事等大人になってからいっさい無いし記憶もありません。

売れる本は等はダンボールにいれてBOOKOFFに売りましたし。最近は紙の本は余り買わずAmazonのKindleの電子書籍で買う様にしてます。

少し愚痴めいた事を書いてしまいましたが、

とにかく

例え親であろうと友人であろうと職場の上司や部下・同僚等心配と言うワード出てきたらその心配は本当に自分の事を思っての事なのかどうか?

少し疑った方が良いなと自分は思いましたね。

そう考えると心配と言う言葉は善意の裏に隠されたやさしさの仮面を被った非常に卑怯な言葉だとも捉える事も出来ます。

皆さんもこれを読んでいる読者さんは、どうか、心配と言う言葉に惑わされないで下さい。

本日の記事は以上になります。

そしてこの記事を読んでくれた読者に感謝します。

本間義昌でした。

追伸。

現在私は、

B型事業所サブカルビジネスセンター横浜

と言う所でデジタルでイラストを描いたりその字要所のホームページに載せるコラムの執筆等の仕事を請け負っています

サブカルビジネスセンター横浜のコラムの方も普段一般にはあまり知らない有益な情報や為になる勉強になるコラムを執筆しておりますのでそちらの方も是非読んで頂ければと思っています

ペンネームよっちゃんと言うペンネームでコラムを執筆しておりこれで通算8回目となります

サブカルビジネスセンター横浜、次世代型就労支援

是非こちらの方のコラムも読みに来てくれると嬉しく思います。

鬱の事に関して,もっと知ろう。今は心を病んでいる人達が沢山いる時代。

私は2017年から2019年に掛けて2度の脳梗塞を患い左足と左腕が思うように動かず両手とも握力が堕ちおまけに言葉も思うように喋れなくなりました、しかしだからこそこんな私でも発信できることがあるのではないかと思いこのブログを始めました、主に私の考えや最近のニュースや事件等を自分の意見言おうと思っております。今までに4000冊の読書を読み迄続くかわかりませんがどうか応援よろしくお願いします。

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