現在既に2年近くうつに掛かっている、今の自分の心境をお話します。それは凡人であろうが、しょぼい人生でもしょぼいなりに幸せに生きる権利はあるのではないか。

どうもこんにちは、ブログの更新をします。今回は思う所があり少し個人的な愚痴っぽい内容になってしまうかも知れませんが、どうぞご理解の程よろしくお願いします。

去年の12月26日の私の50橡の誕生日に一冊、電子書籍出版を果たしました。


然し、二度目の脳梗塞をきっかけにうつも再発して現在横浜駅のメンタルクリニックに診療をして薬も抗不安薬も2種類処方してもらい30分のカウンセリングで自分の話を聞いて貰っています、根気よく自分の話を聞いてくれるカウンセラーの心理士の先生には改めて感謝したいと思います。

然し、今も気分の浮き沈みが激しく悲しく無いのに何故かぽろぽろと涙が出てきたりおかしくも無いのに笑い出してしまう所もあり自分でも躁鬱が激しく精神的に相当まいって人生に疲れ切っている状態なのかも知れません。

思えば自分の幼少期は周りの親や兄妹や周りの大人達から壮絶な期待とブレッシャー=重圧を掛けられながら様々な役割を与えられて生きて来た様に感じます。

生前の父は小さいながらも会社の社長で自分は、その後継者・跡継ぎと言う役割、家では長男としての役割、更に妹二人いるので兄としての役割又、甥や姪も生まれてきている為叔父としての役割も追加され色んな役割を押し付けられて生きて来た様に思います。

3人兄弟の中で唯一の男の長男として両親からも妹二人そして他の周りの大人達からも自分に対して余りにも期待値が大きすぎたんだと思います。

そもそも人に役割を与えると言う事は如何言う事か?それは自分の意図とは関係なく強制的にレッテルを貼られて仕舞う様な物です。

そして、一度役割と言う名のレッテルを貼られると、両親・兄妹・姉妹・友達・友人だけでは無く
そして、その人の周りの大人達からもこの人は○○さんの息子(娘)さんだからと言うフィルターと言う色眼鏡で見られて本当の自分、素の自分と言う個人としての性格や人格・人柄等、自分自身と言う素の本来の姿を見て貰えなくなるのです。

自分もかって様々な役割を強制的に張り付けられただけでは無く高校卒業時は丁度就職氷河期が始まったばかりなので何処にも自分を受け入れてくれる所は無くやむを得ず父の経営している会社に入社しましたが入った入社時の当初は、「親の七光り」だの「親のコネで入ったバカ息子」だの、と散々貶され周りの大人達や両親も妹二人からもバカにされて生前の父親自身も人に自分を紹介する時「こいつは、どうしようもないバカな道楽息子だよと」自分の頭を何度も拳骨で小突かれながらと他社の社長さんに紹介され父親自身は、謙遜のつもりで言っただけなのかもしれませんがその様にバカな道楽息子弱張りされて紹介された自分の気持ちを少しでも考えた事があったのでしょうか?と疑問に思います。

おそらくこれは会社だけでは無く、芸能界や医者・政治家の世界でも同じ事が起きてるのでは無いのでしょうか?例えば二世タレントや医者の世界や政治家の世界でもなまじ父親・母親が余りにも世の中や世間に顔が売れすぎて影響力が強すぎていつも父親や母親と自分を比較されて仕舞うのは、ある意味影響力のある父親・母親の元に生まれて仕舞ったら誰に取っても特に子供は本当に辛く苦しい人生を送らざるを得なくなります。

二年か三前に歌手の松田聖子と神田正輝との間に生まれた娘さんである神田沙也加さんは、本業は女優でしたが声優にもチャレンジし(ディズニーアニメ・アナと雪の女王)でアナ役の声優役もチャレンジし見事その役を果たした矢先の事件でした。その神田沙也加さんがビルから飛び降りて自殺

した事件を覚えておられるでしょうか?

彼女も既に亡くなっておりますのでもう推測でしか語ることしか出来ませんが彼女自身も両親の影響力と比較されて本当の自分を見て貰えず相当苦しい人生だったように思います。

成功しようが失敗しようが、常に両親の手柄にされ失敗すれば両親の面子を潰す事になるので両親以上に人の二倍も三倍も努力したのかも知れません。

でも常に自分と両親と比較され続けてそれに耐えられなくなって対思いつきでその様な突発的で場当たり的な行動に走ってしまったのではないかと推測します。

遺書と思われる書き置きも残しており自殺だった事は確実ですが、当時テレビに出てた松田聖子と神田正輝の二人の両親は共にマスクをかぶり気丈に振る舞っていましたが

二人とも顔からは明らかにマスク越しでも憔悴仕切った表情が見て取れました。娘の遺骨を抱いていたのは父親の神田正輝さんだったと思いますが、二人とも痛々しい表情で見ていられなかった程です。

改めて、神田沙也加さんのお悔やみとご冥福をお祈り申し上げます。

この例からも見て取れる様に、当事者は本人は本当に辛く苦しい思いをしていたと思います。

何か上手く行ったら「あの人の息子(娘)さんだから上手く行って当然だよ」と言われ失敗したら「あの人の息子(娘)さんの癖に失敗する何て無様なんだそれでもあの人の息子(娘か)!」

と言われ、詰り、上手く行こうが失敗し様が結局偉大で影響力のある父親・母親と常に比較されてしまいその人自身の性格や人格・人柄等、役割と言うレッテルを強制的に貼られた為に如何成果を出そうが失敗し様が本当の素の自分自分の性格や人格や人柄等常に役割と言う名のフィルターと言う色眼鏡でその人を見て仕舞い、その人の本来の姿を見る事が出来ないのです。

もし父親・母親と同じ職業や同じ道を選ぼうとするなら余り乗り気では無いのであれば安易な選択はよした方が良いと私としてはそう思います。

カエルの子はカエルにしかなれないと言うことわざがありますが、それでも安易に両親と同じ職業を選んで仕舞ったら常に影響力のある両親と比較されながら、自分の本当の素の自分を見てもらえず、自分の性格・人格・人柄をまともに見てもらえず苦しい人生を送る事が目に目えています。

(それでもその様な事も起こる前提の上であえて両親と同じ道を行くのならその子も相当の覚悟のうえで親と同じ道を選んだんですからそれは結果が如何であろうと自分の責任です。

その事だけは覚えて置いて下さい。)

少し極端な例を出してしまうかも知れませんが、仮にやくざ(極道)の子として生まれて来た子供は例え大学まで卒業できたとしても、何れ将来においてもやくざ(極道)になるしか他に選択肢は無いのかと思います。

もっと極端な例を言って仕舞えば例えば過去に人を殺意を持って人を実際に殺した男性が人を殺してその後警察に逮捕され刑務所に収容されそして刑務所から出て来て刑期を終えて法的には償ったのかも知れませんが、その男の両親や兄妹が居たら如何しても周りや世間の人々から人殺しの親、人殺しの兄妹等と後ろ指を指されていたたまれ無く世間から肩身のせまい暮らしになってくるのもこう言った加害者家族も苦しい人生を送らざるを得なくなるのです。

しかも今の時代はSNSが普及しておりそのSNSの僅かな手がかりをを元に、簡単に犯罪を犯した本人やその両親・兄妹・友人に至るまで簡単に特定する事が可能になって仕舞いました。

その事も考えずに殺人を犯して仕舞ったその男は余りに思慮が無かったと言わざるを得ません。

仮に誰かと結婚して子供が産まれてもその子供は、生まれて来た時点で人殺しの子として忌み嫌われる運命にあるのでしょうか?

例え父親が人殺しの殺人者だったとしても子供も殺人者になるとは、限らないじゃないですか。

それにまだなにも犯罪を犯してはいないんですよ。

その子自身もまだ何の罪も無いのに父親が殺人を犯しただけで子供も殺人者の子として未だやってもいない無実の罪を着せられその様に人々から忌み嫌われながら寿命が来る迄生きなければなら無いのでしょうか?

私だったらとっくに自分の人生に悲観して自ら自死を選んで仕舞うかも知れません。

どんな境遇であろうともどんな両親の元に生まれて来たとしても色んな選択肢があっても良いと思います。

ただ、もし影響力のある偉大な両親との間に生まれて仕舞ったら両親の職業とは一切関係も何の接点も無い別の職業に就く事をお勧めします

子供の人生は子供だけの物です。

それを勝手に両親の望んで要る職業のレールの上に強引に乗せられて仕舞ったら、

これは誰に取っても特に子供の方が余り乗り気では無かったら、本当に辛く苦しい人生に為って当然です。

その事で両親は一時の安心と満足は得るかもしれませんが、子供の好きな事や遣りたい事を完全に無視した行為であることは間違いありません。

本当に子供の方は、本当に苦しい人生を送る事になって仕舞います。

その一番分かりやすい例は歌舞伎役者で有名な市川海老蔵さんの未だ小学生低学年頃の幼い息子さんです。母親の方は運悪く悪性のがんに掛かり若くして亡くなっております

ちなみに海老蔵さんは。アメブロでブログも遣っております

市川海老蔵ブログ

ですがまだ幼い息子を早々に歌舞伎役者に仕様と言うのは彼の意思も聞かずに勝手に歌舞伎役者になるレールにいつの間にか状況に流されるようにいつの間にか歌舞伎役者のレールに乗せられた様な気もするのです。

父親である海老蔵さんを喜ばせたかっただけだったのかも知れませんがこれも子供の本当の意思を無視した行いであることは間違いないと思います。

確かに歌舞伎というのは代々受け継いでゆかなくてはならない文化遺産であることは間違いありませんがそれは何も自分の血を引く子供でなくても要は伝統芸能が次世代に継承出来れば良い訳何ですから、確かに、自分の血を引いた実の子供に継がせたい気持ちは分かりますが結局子供それも幼少期のうちに子供子供の人生のレールを勝手に作ってそれ強引に乗せるのは子の無限にある可能性を次々と潰し他の選択肢を全て潰している事になるのではないのでしょうか?。

お子さんが大きくなって歌舞伎の他にも遣りたい事が見つかった場合お子さんの遣りたい事を応援し後押しして上げられるのでしょうか?

ここに海老蔵さんの父親としての度量が試されます。

もしまだ幼い海老蔵さんの息子さんが子供が歌舞伎の面白さを知って本格的に歌舞伎を遣りたいと言うはっきりとした意思があるのなら父親である海老蔵さんがその目標を後押ししてあげれば良いだけの話です。

少し話はそれましたが、話を戻そうと思います。

自分でも自覚しているのですがこれ程長男らしくない長男は居ないと思いますし、又兄として妹二人に何もして上げられる事も出来無かった事も兄として情けなく不甲斐ない思いで一杯です。

それにもう今では互いに考えている事や価値観・興味のある事が余りにも違い過ぎてもうこの妹二人には、兄妹関係を修復する事の出来ない位、深い溝が出来る程関係を修復する事が困難になって仕舞いました。何より二人の妹は、自分の事をナルシスト弱張りして罵倒して嫌っているので如何関わって良いか分かりません。

ここから先はプライベートな私的な話になって仕舞いますが、先月の4月17日の日曜日に父の三回忌の法事があり極身近な身内のみでお寺で法事を行いました。

(その中には、母親も含まれますが、もちろん妹二人と成人した甥と小学3年の姪と長女の旦那さんも一緒です。)

法事が終ってその後極身近な身内全員で自宅の方に車で向かってお寿司などを取って食べたのですが、今の自分では、正座すら出来ず、一人別のソファーに座って一人で別の小さなテーブルにお寿司を別の皿に取って更に法事の疲れの為か、余り食欲が無く数種類のネタだけ取ったあとそれを一人で食べていましたが、なんか一人だけ物凄く寂しい気持ちが沸き上がってきました。自分1人だけ完全に浮いた様な存在に成ったような気がしてきて、物凄く疎外感を感じ居心地が悪かった事は覚えています。

母親や妹二人の興味のある事と言えば、毎日の生活の事・家庭の事・子供の事特に養育費や教育費・等の雑談更に言えば長女の妹は、旦那さんの至らない愚痴も言ってくる雑談も多く、そんな雑談の中に自分が家族の輪の中に入って下手に余計な一言でも言おう物ならすかさず母親や妹達から手で口をふさがれるのが目に見えています。

(母曰くお前はただソファーに座ってみんなの話を黙って何も言わずに聞いて入ればそれで良いと言われて仕舞い内心ショックを受けました。)

一体いつからこんな歪な家族・親子関係・兄妹関係になって仕舞ったんだろうと思うと思えば自分が2回目の脳梗塞になってから生前の父親も自分に対してだけは非常に厳しく育てられましたが、2回目の脳梗塞になってから猶更、母親も妹二人も非常に自分に対して厳しく当たる様になって来た様に思います。

自分の人生を振り返って見ると翌々考えれば自分は生前の父も含め家族全員が自分を軽く扱われていた様に自分たちの都合の良い様に扱っていた感じもします。

もっと簡単に言いかえれば自分は生前の父も含め家族から完全に舐められているのではないか?

とその様に感じました。

その理由は薄々ながらも気づいてしまいました。

それは生まれてから一度も両親に対しても妹二人に対しても一度も反抗も反論もした事も無ければ言い返した事も怒った事も怒鳴った事も無かった所為なのかも知れません。

然しそんな事を今更言った所で母親や妹二人に言うと「だったら舐められ無い様にお前がしっかりすれば良いだけの話だよ」と正論で返されて言われるのが堕ちです。

生前の父も母親も妹二人も全員口達者なので何時も言い負かされて何か少しでも言い返そうとしたなら父からは「生意気な口をたたくな」テーブルをどんと叩いて大声で一喝されてその後長時間にも渡る父親からの罵詈雑言や出来損ないだの無能だの失敗作だのと散々自分をこれでもかと言う位に貶されその拷問に等しい説教に耐えなければ行けませんでした。

母親からも「自分はどちらの味方でも無い自分は飽くまでも中立の立場だ」と言って突き放し、傍で見て要るにも関わらず一度もフォローしてくれませんでした。

妹二人からも何も助けてもらえずフォローもしてくれず「お父さんを怒らせたお兄ちゃんが悪いんでしょ」と言われ「一番下の妹からは、「パパがかわいそうお兄ちゃんがパパを怒らせる様な事ばかり言うから行けないんだよ!あんなに良いパパはいないよ」と全て自分が悪者にされて生前の父親も含め家族全員が自分を厄介者扱いして仕舞っている状況です。

それでも、今までの人生で何も言わず文句一つ言わず、両親に逆らう事も出来ずにそのうち反抗する事も言い返す事も無意識に諦めて仕舞ったのかも知れません。

然し、今更それに気づいてももう自分は言葉に障害があり上手く話す事が出来なくなって仕舞いもう言い返す事も反論も出来なくなってしまいました。

母親からもちょっとした事でも説教やお小言を言われっぱなし、

妹二人にしても好き放題に言われっぱなしになっています。

今にして思えば自分1人だけに生前の父も含め家族全員から

自分自身に対する期待値が余りにも大きすぎたと今では思って下ります。

その期待が自分が2度も脳梗塞になって身体が不自由になってから今まで散々期待していた私自身に対して「よくも私達の期待を裏切ってくれたな」と自分に対しての怒りの感情や恨みの感情を残された家族全員が自分に大して期待を裏切った怒りがあるかも知れません。

生前の父も「息子に全てを委ねたい」と聞いていましたしそれだけ自分に対する期待が大き過ぎたかも知れません。

家族全員の期待を自分が脳梗塞と言う病気になってその所為で裏切られたと家族全員が自分に対しての怒りと失望感があるかも知れません。

もし自分が父の会社の後を継いで自分が父の会社の二代目の社長に就任していたら皆全てが丸く収まって居たのでは、無いのだろうか?今でも考えがよぎる事があります。

例え自分が父の会社の後を継いで社長に就任してそれで経営が上手くいかず会社を倒産させて仕舞っても自分の血を引く実の息子に会社を潰されたとしても、父も母も未だ諦めが付いたのではないのだろうかと、こんな事になるならダメ元でもとにかく会社を継いで二代目の社長としてダメ元でも経営に専念するべきだったか知れません。

それで一生懸命に会社の運営に力を注ぐべきだったかも知れません。

然し、自分もまさか40代後半で脳梗塞を2度も患ってしまい今では、まともに働く事も出来ない身体になって仕舞いました。

当然父の会社を継ぐ事も出来なくなりました。

働いて好きにお金を稼ぐ事も出来なくなってしまい、自分が出来る仕事は本当にごく限られた物になって仕舞いました。

今では家のただ名ばかりの長男としての役割として家の責任も今後全て自分で背負わなくてはなら無いとなると本当に憂鬱な気分になって仕舞います。

何れその母親も何時か死ぬ時が来るかもしれませんが、できれば母親よりも先に死んでしまいたいと言う気持ちも少しは残っています。

名ばかりのお飾りの長男でしかなく、実質今は、家の中では自分が一番序列が最下層になっていて何も権限を与えられて居ないと言うのが今の自分の実情何です。

父の会社で働いていたときも実質なにも権限は、与えて貰えずただ名ばかりの役員して役員としても権限は実質なにも与えてもらえなかったし会議とは名ばかりの社長である父親の独演会の様な状態で発言する事も許されない立場でした。

会社でも家でも常に嘗められっぱなしの人生を送って来た様に思います。

この時、瓶座まるかん創業者の斎藤一人さんのある言葉を思い出しました。

その言葉とは「威張っちゃいけないけど舐められてもいけない」と言う言葉です。

でもこれって口で言うほどそう簡単に出来る事ではありませんよね。

でも特に人の上に立とうとする人は猶更この言葉を肝に銘じておかなければなりませんよね。

電子書籍に書きましたが長男だからと言って特別な人間では無いんだと言うただの凡人何です。

たまたま最初に生まれて仕舞っただけの話何です。

たまたま本の少し文章を書くのが上手いだけのただの凡人何です。

然し例え自分に少々の文才があっても家族全員はそれに価値を見いだす事も認めてくれる事も無いと思います。

何故なら幾ら文才があったとしても日常の生活には何の役にも立たないからです。

又は仕事に役立つ能力(スキル)を身に付けてほしいと言うのが本音なのでは無いのでしょうか?

それどころか「文章で飯が食えるか!」と言ってくるのが落ちです。

生前の父はとにかく、汗水垂らして肉体労働をして得たお金こそ例え少額でもそれは価値ある美しいお金何だと言う価値観を持っていました。

だから人様からお金を頂くのは大変な思いをして汗水垂らし働いて稼いぐのは、当たり前だと言う価値観で凝り固まっていて死ぬまでその価値観は変えられなかった人でした。だから楽して大金を稼ぐ仕事等生前の父の価値観では如何しても認められたかったのでしょう。

ですが今ではPCやスマホも普及して肉体労働から頭脳労働に比重が置かれてきています。

そして、今では殆どの仕事は肉体労働はAIやロボットに取って代わられ肉体労働の価値が今後どんどん易く買い叩かれるような時代になってくるでしょう。昭和の時代だったら未だ肉体労働の需要はあったかも知れませんが、特に建設業や介護業界は苦しくなる時代がもうすぐそこまでやってきているかも知れません。

又少し話がそれて仕舞いましたが

だからこそ、これからは色んな、役割を少しずつでも手放して今後は、一人の男性としての平凡な凡人として自然体のまま生きて行くのもそれ程悪くない生き方だなとそう考えられる様になりました。

又、生涯一度も結婚せず独身を貫き通すのも悪くない生き方だなとも思える様になってきました。

ただその時自分の寿命が尽き、自分の死後自分の遺体・亡骸を如何処理してもらうか?

そこは未だ自分が生きているうちにエンディングノートを予め生前のうちに書き綴って置いて自分の死後は小さくとも余りお金の掛からない葬式と誰に葬式に来てもらいたいのかその人物の連絡先を言書き留めておくので、告別式を行って火葬してもらえば良いと思います。

ただ火葬する前に、最後にこの世に残していける最後の善行として自分の臓器で使える所があったら心臓でも肝臓でも角膜でも皮膚でも血管でも自分の遺体から使える物は取ってもらってもかまわないと思っております。

それで自分の遺体を大学病院等に献上しようと思います。

当然家族全員は猛反対するでしょうが、最後くらい自分の意思を尊重してほしいと思います。

ただ膵臓だけは糖尿病を研究している研究所等に譲りたいと思っております。

そして自分の膵臓を解剖して糖尿病の完治の一環として頂ければと思って下ります。

その後は火葬して残った骨は、船で海にでもばらまいてくれても良いです。

如何しても一部骨を残しておきたい場合は、その骨で何か、身体に身につけられるネックレスでもイヤリングでも指輪でも専門の業者に加工してもらって下さい

結婚して子供を持つ事はもう無いかも知れませんしその点は両親特に母親に対して孫の顔を見せられないと言うのはある意味親不孝な事をしているかも知れませんが、脳梗塞で身体が不自由になって行動範囲も物凄く制限されて仕舞いました。どの道こんな身体が不自由になった、自分を好きになってくれる女性はもう居ないと思います。婚活する気力も失せている様に感じます。

好きだった音楽ライブに行けなくなりました。

ちょっとした日帰り温泉に行く事も出来無くなくなってしまいました

自分で出来る事もかなり限られてしまい更には親子関係・兄妹関係が上手く行っていないと言うのも悩みの一つではあります。

本当に家族特に母親や妹二人に対して本当に役に立たない役立たずな人間になって仕舞った様に感じて仕舞います。

むしろ母親や妹二人の方が自分なんかよりもよっぼどしっかり自分の人生を生きていると思います。

二人の妹もむしろとっとと死んでくれと思っている様な気もします。

何故なら家の事に関して本当に役に立てない役立たずな人間になって仕舞ったからです。

多少の、文才があった所で「それが何の役にたつの」と行ってくるのが落ちです。

母親にも何時も苦労ばかり掛けて本当に申し訳なく何時も罪悪感で一杯になります

こんな事になるのなら妹二人にはもっと若い内からコミュ二ケーションを取っておくべきだったと激しく後悔しております。

でもそれも自分で招いた種ですからその結果は甘んじて受けれようと思っています。

ジェームズ・アレンの書いた「原因と結果の法則」では自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないと言う言葉が記載されておりますが、本当にその通りだと私は思います。

全ては自分が無意識に蒔いて仕舞った種が原因です。

今は自分で蒔いて仕舞った悪しき種を自分で刈り取る時期なのかも知れません。



独身と言うとネガティブなイメージがあるかもしれませんが独身は独身なりにメリットもあります。

その中でも最大のメリットは自分の時間を自分の為だけにつかえると言う所が一番大きい所です。

仮に結婚したとしても幸せになれるかどうかは互いの夫婦の協力と努力は必要不可欠であり仮に子供が生まれたとしても幼少期の頃の子供とのかかわり方で子供が幸せな人生を生きられる確率は上がりもすれば下がりもするのです。

その事を教えてくれた一冊の書籍があります下記の書籍がそうです。

上記の書籍は、現在もうつ闘病中のデラさんが、うつの「底」から抜けるためにやったすべてのことを紹介。
うつ病はなかなか治らない。
だからこそ自分の欠陥を受け入れ、それでもうまい事ハックすればどうにか生きていける……というリアルな体験談です。 
うつ病9年目、再発5回。 死にきれなかったボクが 「村人A」として生き直したら 少しずつ元気になった話。
うつに悩む人の他、予備軍で今なら逆戻り可能な人、うつの周りの人にも役立つ内容が書かれています。

自分もこの本を読んで様々な役割と言う名のヒーローの座を投げ捨てて昔のファミコンのRPGの

ドラクエ(ドラゴンクエスト)FF(ファイナル・ファンタジー)に出て来る様な町や村の様に

ただの村人Aや町人Bの様に目立たない群衆の一人モブAとして生きるのも悪い生き方ではないと考えが変わって行きました。

しょぼい人生でもしょぼいなりに楽しい人生や小さな幸せを感じられる事は幾らでもある

ヒーローや英雄の様に目立つ活動は出来なくとも目立たなくても村人Aや町人Bの様なサブキャラとして生きるのも生き方の一つなのかも知れない、自分の身の丈に合った生活をし、自分の周りの本当に大切にしたい人に対してしてやれる事を出来る限りの事をする、そして日々の平凡な、しょぼい毎日を送る、その中から小さな幸せを感じながらしょぼいながらも自分に取って楽しい日常の毎日を送る、その方が余程自分らしく自然体で幸せに生きられるのではないか?

要は仏教の教えにもある「足るを知る」と言う事その事を思い出させてくれました。

この書籍はそれを思い出させ教えてくれた本です。

自分は10代後半で糖尿病にかかりましたが

そんな自分でも月一回くらいは血糖値を度外視して本当に食べたい物や飲みたい物を取り好きなアニメや音楽・映画・ゲーム・漫画・ラノベ小説・読書をして暮らしながらも時々こうして有益なブログ記事を書いている時が多少は少しは幸せだと感じられる様になりました(それでも気分の浮き沈みが激しいですが)

二度も脳梗塞を患って身体が不自由になり第二の人生を生きるにはかなりマイナスからのスタートになって仕舞うかも知れませんがそれでもスタートである事に間違いはありません。

これからも時々死にたいと思う気持ちが過る事がありますが、それでも一人でも孤高に幸せに生きる覚悟をもって寿命を全うして生きて生きたいと思っております。

今実際にうつに罹っている人もしくは予備軍の人はこの書籍はうつ症状で苦しんでいる人の心を和らげてくれる書籍です。

興味が有りましたら下記にアマゾンリンクを

貼っておきますのでそこからご購入して頂ければ幸いです。

うつと言うのはある意味一時的に脳が老化現象を起こし脳が強制的にフリーズ状態となり何も考えられ無くなってしまっている状態です。

飛行機で言えばコクピットの操縦席に付いてるメーターの計器が故障して狂っている状態に似ています。

飛行機がもし上空を飛んでいる時に雲の中に突っ込んだとしましょうか?

一度雲の中に入って仕舞えば高度何千キロの上空を飛んでどの程度のスピードで飛んでいるか又はどの地点の上空を飛んでいるかは操縦席のメーターの計器が頼みの綱になります。

然しそのメーターの計器が故障して狂っていたならば、どの高度を飛んでいるかどの程度のスピードで飛んでいるか現在どの地点を飛んでいるのか分から無いのと同じで、

人も自分がうつに罹っていないと思い込むのは、人体のメーターの計器が故障して狂っているのと同じ状態なのです。

もし精神科やメンタルクリニック等でうつ病の診断がされたならばある程度お金をため込んでいたら会社を辞めてでもとことん眠って休む事だけに専念してください。

うつは、特にまじめで責任感の強い人程かかりやすくどんな年代の人でもかかる可能性のある精神の病です。

一歩間違えれば自ら自死をえらんで仕舞う様な死と隣り合わせの危険な精神の病であり脳の病気何です。

例え親・兄妹・姉妹に例え「甘えている」だのと「何時までも怠けるのは許さない」「もう十分休んだんでしょそろそろ仕事してよ」と、罵られても先ずは自らが生きる事だけに集中して下さい。

その様な事を言って来る人はうつに一切かかっていない超ボジティブなボジティブバカな人か精神病に一切理解が無い人が言う言葉です。

うつは皆さんが考えている以上に恐ろしい精神の病であります。

もし鬱を患っている人が本当に自殺して後から後悔しても既に何もかもが遅いんですよ。

「死ぬほど悩んでいるんだったら何でもっと早く言わなかったんだ」

それこそ自殺の兆候のサインは放っていたはずです。

例えば身の回りの物を片付けて身辺整理をし自分が大切にしてた物を友達や友人に譲ったりします。

今まで好きな事や興味のあった事でも突然興味を示さなく為ったりするのもサインの一つです。

セルフネグレクトもサインの一つかも知れません。

おしゃれだった人が別人の様に着る洋服に関心が無くなって行く事等もサインの一つだと思います。

そのサインに気づかなかった人が例え死にたいと直接口に出して相談しても言葉でこう返していたのでは無いのでしょうか?

「死にたいなんてただの甘えだよ」とか「残される人の気持ちになって考えて見ろよ」

「死ぬなんて無責任すぎるだろ」とかいろいろ言って来る人も入ますが、

では、もし本当に死にたいと言う気持ちを分かってもらえず本当に自殺して仕舞ったら上のような言葉を浴びせて来た人達も責任の一端はあります。

けどそこに更に追い打ちを掛ける様に心無い言葉を言って来る人も一定数入るのです。

具体的には「あいつは勝手に自殺した人生の負け犬だ!」とか「こいつは自分の人生に負けた弱虫だ!」とか、散々自殺した人間を貶しますがこの様な事を言う人には「この大馬鹿野郎」と言って殴り飛ばしてやりたい気持ちになってきます。

その人が自ら自死と言う決断を下してからどの様な事情や背景や葛藤があったか等一切考慮せず弱かったから死んだと言って切る言葉を言うのは、簡単かもしれませんが、死んだ本人は、そこ迄追いつめられる程精神的にも肉体的にも生きる気力すら無くしてた可能性もあるんですよ。

死んだ本人も自分の人生と懸命に生きて頑張ったんですよ。

頑張って頑張って頑張って努力して努力して努力して体力も気力も限界ギリギリ迄限界などとっくに超えていたかも知れませんし、懸命に自分の人生と向き合って戦って生きていた人何ですよ。

私はそんな人を弱いから死んだんだとしてもその言葉は口が裂けても言えません。

それに、そんな事は希死念慮を抱えて居る本人も十分すぎる程、

分かりすぎる程分かって要るんですよ。

そんな言葉でバッサリ切られる様な言葉を死にたいと思っている人に対しては、むしろ何も役に立たない所か救いにもならないし死にたいと言っている人に対して傷口に更に塩を塗り込む様な物です。

こんな時は実際に相手の死にたいと思う気持ちに配慮しながら慎重に言葉を選ぶべきであります。

具体的には「死にたいほどつらい事があったんだね」とか

「死んでしまいたいほどあなたは頑張って努力して生きてきたんだね、よくここ迄生きていてくれね」

もし仮に死にたいとはっきりと言葉で言って入る程返って死なない物だよ、とその様な事を言っている人は本気で自殺したいと思っている人の気持ちを全く考えていないと思います。

死にたいとはっきりと言葉で言っている程「返って死なない物だよ」と言っている人その人は自殺を誤解しています。

死にたいとはっきりと言葉で言っている人はまだ、生きる余力や気力が多少でも残って要る人何ですよ。

だからこそ希死念慮を抱えて要る人程、慎重に出来れば顔の表情も確認しながら言葉を選びながら話す事です。

希死念慮を抱えて仕舞っている程鬱が重篤な状態ならばその様な人は「生きたくは無い」「でも死にたくも無い」と言う矛盾した葛藤を何時も抱えて苦しんでいます。

死にたいと実際に口で言っている事は本当は、もっと生きたいとSOSを発信し助けを求めているのと同じ事です。

如何か死にたいと言う気持ちに寄り添って暖かい言葉をかけて共感して上げて下さい。

死んで仕舞った人間をどんなに責めたとしても時既に遅し後の祭りです。

うつ病に対してもっと理解を示して欲しいと思います。

少し愚痴っぽい記事になりましたが如何かご理解ください。

今回の記事は、以上になります。

最後まで読んでくれた読者の皆様に感謝します。

本間義昌でした。

鬱の事に関して,もっと知ろう。今は心を病んでいる人達が沢山いる時代。

私は2017年から2019年に掛けて2度の脳梗塞を患い左足と左腕が思うように動かず両手とも握力が堕ちおまけに言葉も思うように喋れなくなりました、しかしだからこそこんな私でも発信できることがあるのではないかと思いこのブログを始めました、主に私の考えや最近のニュースや事件等を自分の意見言おうと思っております。今までに4000冊の読書を読み迄続くかわかりませんがどうか応援よろしくお願いします。

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