近況報告~父の死 どうもこんにちはブログの更新です。
今日はちょっと自分の起こった事で悲しい事を少しお話させてください。
今年令和4年4月25日午後21時20分私の父親が原発不明癌を患い一年近く入退院を繰り返し病気と闘ってきましたが治療の甲斐も無く最後は病室で眠るようにすうっと息を引き取りました、。
まるで自分は最後の瞬間までこの病気と向き合って最後まで戦った
何の悔いもない言わんばかりの穏やかな死に顔でした、、
すでにエンバーミング(防腐処理の事)、されすでに亡骸となっている父の顔は、
自分が今までに生きていた頃には、一度も見せたことのないような優しい顔になっていたことになぜか自然に涙が出て止めることが出来ませんでした。
すでに5月1日に葬儀と5月2日に告別式を行いましたその時に葬儀の時にお坊さんの説法をきいてまた自然に涙が零れ落ちてきてしまいました。
非常に心に残る説法だったので要約してまとめたいとおもいます
お坊さんの説法は要約するとこのような話になります、
「あなたのお父様は肉体は滅び魂だけの存在となりあの世に向かわれるときお釈迦様がで迎えに来られたのですよ、 なぜ迎えにかられたわかりますか。 それはお釈迦様が父の生前の行いをすべて許したからなんだよ、許したからこそお釈迦様が魂だけの存在になった父の事をむかえにきてくれて父はお釈迦様の弟子になることも許された、人間は、誰でも過ちを犯したり間違いを犯したり時には魔が刺す時もありなす。 それこそ自分でも気が付かつかずに無意識に相手の事を言葉等で 傷つけてしまっている事も一度や二度では無いのかもしれません、 それでもそんな父を認め全てを許した、許したからこそお釈迦様の弟子となることも許された、 そしてこの場に葬儀に訪れてくれた人たちもすべて許しまた父からも許されたんだよ」とお坊さんの説法は、 本当に葬儀会場の悲しみを温かく包み込むような優しい語り口調で語ってくださいました。
自分も若しかしたら気が付かずにいろいろと父に対し傷つよう事をやっていたのかもしれない、
自分を顧みて初めて ごめんなさいと言う思いが生まれて、心の中で涙を流しながら父の遺影に対して謝罪しました。 そしてお坊さんの口から父の思いが伝わったような気がして「もう良いよ、もう許すよ」言っているような気もして また目から涙が零れ落ちました。
おそらくあの父の優しく穏やかな死顔は死んで天に召された事に よって生前の今まで無意識にしろやってしまった事、遣らかしてしまった事のすべてが 魂そのものが洗い清められこの世の全てのしがらみを脱ぎ捨て全てを許されたからこその死顔だったのかもしれません、
改めて父の冥福を祈りたいと思います、父の人生という闘いは終わりました。
そして、、もし生まれ変わりが有るとしたら魂の縁があれば200年300年の時を経てきっと出会う時がくると信じています、
自分もいづれ寿命を全うしたらそっちにいきます、
それまではいっときのお別れです、どうか安らかに人生の疲れを癒してください。
許すという事の難しさ 「許す」言葉にすると簡単に聞こえるかもしれませんが、
実際に許すという行為はなかなか出来ないと思います、
許すという行為はあらゆる感情の中でも最も難しく困難なものだからです、
なぜなら許すという行為は様々な葛藤や妥協も 必要な時もあるし長い時間を経て下手をすれば何世代も掛かってようやく許せる気持ちに少しずつなってきたと言うのもあります
例えば、今話題になっているロシアとウクライナの戦争を例に 取ってみるとお互いが言い分はあるかもしれませんが、はっきりとわかっている事は、 国と国同士が戦争してもどっちが勝とうが負けようが、お互い決して幸せになれないという事です。
国どうしが戦争したって結局お互いの国民,一般市民には関係なく例えばある家族が敵兵に撃たれて死んだり腫瘤弾の爆発に巻き込まれて死んだとします、
又はビルが倒壊してその下敷きになって死んだとか、
どちらにせよ戦争に巻き込まれて死んだことに変わりはありません、
でもそんなことは関係なくただ愛しい人を理不尽に奪われた悲しみは恨みは相手に復讐しない限り たとえ復讐を果たしたとしても、一度根付いた恨みや憎しみは、そう簡単に消えるものではないと思っています それは、愛する物を奪われた恨みや憎しみを正義という大義名分に変えているだけだと思います、 もし大義名分さえあれば正義の名の下に戦争しても良いとか 愛する人を殺されたとか復讐を是とするような世の中になってしまうと 人と人同士が常に争いの絶えない非常に悪意に満ち溢れた幸せとは程遠い世界になっていくのかもしれません
そして恨みや憎しみを抱えたままでは人間はどれほど足掻こうとも恨みや憎しみ抱えたままでは 決して幸せになれないと人間の脳の構造的にも幸せになれないようになっているんです
ですからどんなに自分がつらくてもどんなに苦しみにのたうちまわろうとも自分自身 の幸せの為にも相手を許す勇気が必になってくるかもしれませんもちろん
恨みや憎しみを抱えたまま生きているとますます恨みや憎しみの思いが増幅されて重くなってくるんです、
でもそこで勇気を出して言葉だけでも許しますといえるようになればその分だけ恨みや憎しみという思いからふっと 軽くなるからです、
なぜなら許すという言葉には相手の事を許すこともそして自部自身も許してあげることにもつながります そもそも許すという言葉の語源は緩むから来ているそうです。
許せないと言う何かを抱えていた場合それが人であり物であり、
もっと大きな目線で俯瞰的に見れば世の中だったり地域や国だったり地球環境だったりと色々とどうにも許せないと言う正義感がありすぎるような気がしてなりません
実は許せないという感情も人によってさまざまな思いに変換されて そこから強烈な悪意を生み出すきっかけなんです
許せないから怒りもわきます
許せないから嫉妬したりもします
許せないから恨んだりします
許せないから憎しみがわきます
そこまで許せない事に拘っていると嫌な人嫌いな人もしくは腹の立つ事に対して自分の時間を捧げているような物です。
許せないという感情の正体 それは、人の事を不幸にしたいという自分の自身の悪魔の声であり人の悪意そのものなんです
そして誰の心の中にも人を不幸にしたい、もしくは誰かを虐めたい虐待したい苦しめたい苦痛を与えたい罰を与えたい相手を捌きたいという欲望が誰の心にもどんな善人であろうともそのような悪魔の種が邪悪な物が宿っているんだという事を覚えておいてほしいと思います
でもそうして負の感情に飲み込まれずに 悪魔の種子を芽吹かせて成長させないように、 種のままそっと頭の中にしまっておく事は可能です
よのなかには、いろんな人の悪意にみちあふれておりますが先の戦争の例の通りこの世に悪魔という存在がいたとしたならば
それは人間の悪意そのものでありそれを世界中に広げて争いを生み出すことが悪魔の本当の目的であり悪魔の本当の正体なのかもしれません もし許せない事があったら腹の立つことがあったら 一分だけ口を開かず黙って無言を貫き通してください
一分たてば少なくとも許せないことや頭にきたことでも だいぶ怒りのパラメータが下がっているはずです。
又は、貴方を怒らせる人たち相性の合わない人から距離を取ってください 。
そして許す勇気を持っていてだきたいと思います。
許す事も許せないという事も厄介な感情であることに間違いはないのですから。
今日はこれくらいで終わります。
最後までお読み頂きありがとうございました
本間義昌
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